園部真幸
詩はエロティシズムの各形態と同じ点に、無差別なものに、区別された対象の混淆に
私たちを導いて行く。それは私たちを永遠に、死に導き、死によって連続性に導くのである
つまり、詩とは永遠であり、海と溶け合う太陽なのである。
(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』より)
ポンのり子は、なぜやきものの世界に生きる中で、妖怪や魑魅魍魎に取り憑かれてしまったのか。おそらく、もともと憑かれやすい資質を持っていたのだろう。北海道で生まれ育った彼女が、やきものを始めたこと自体が、すでに異界への出発であったはずだ。未知なものへの憧憬、異族への愛着などは彼女が生来持ち合わせた資質なのかも知れない。
彼女がやきものを一から学んだ加藤元男氏の率いる美夜之窯も、そうした彼女の資質を助長する格好の場所であったようだ。やきものの伝統産地の中にあって、美夜之窯はちょっと異質な存在で、伝統的な徒弟関係でも近代的な工場でもなく、一種共同体的な分業体制の中で、陶壁やモニュメントなど建築空間や自然環境と一体となったやきものを手掛けてきている。それは、依頼者の注文に応じる形での制作なのだが、そのことが彼女に陶芸をただの個人芸ではなく、社会や他者との関係を通した表現行為とする意識を強く持たせることになったように思える。そんな彼女にとって時流に乗った現代陶芸の様々なムーブメントやスタイルは、そもそも眼中になかったはずだ。やきものの表現に向かわせる動機が、最初から現代の多くの陶芸家とは違っていたように思える。そして、こうした彼女の陶芸観を確かなものとしたのがメキシコとの出会いだった。
近代以降の日本のやきものは、産業としての工芸から美術へとその地位を高めていく過程だった。その背景には、陶芸家と呼ばれる個人作家の近代的自己意識、個性的で自由な表現への志向がある。その後、日本の陶芸は多様な展開を見せてきたが、現代の作家にとって「自我」「自己意識」「個性」「自由」といった理念は、創作上の立脚点であると言ってよい。しかし、彼女の創作に向かう姿勢は、他の多くの現代作家とは異質である。それは「自己意識に基づいた自由な表現」とは言いがたい。彼女にとって作品とは、妖怪どもや魑魅魍魎にけしかけられ、せかされ、止むにやまれず創りあげていく、いや、創らされるのだ。異界とシンクロナイズする中でしか彼女の作品は光を放たない。そこには死の影が漂う。
今日、「癒し」という言葉がよく使われる。経済成長も行き詰まり、社会は一層複雑化し、中心軸がどこにもない。高度情報化社会といった言葉にも、かつての高度成長時代のような明るい未来を予感することもできない。そんな中、自然に還り自然と共生し生命を取り戻そうという欲求が現れている。陶芸作品の中にも、そうした意識を反映したものが現れている。しかし、死を前提としない生などありえない。生と死は対概念であって、死を媒介にしない生命の表現などリアリティーを持ち得ないのだ。今日の癒しブームは近代的な人間中心主義に立って、死を限りなく遠ざけながら、都合の良いところだけ自然にあやかろうとしているように見える。
彼女にとって「癒し」は、ミステカ族の先祖が送る風やサポテカ族の守護神など、メキシコの自然に宿る神々や精霊、妖怪たちからもたらされる。森の動物や植物など自然界の様々なものに祖霊や守護霊が宿っているという信仰は、日本でもアイヌや各地の民間伝承に見られるが、自然は神々や霊たちが闊歩する領域であり、異界=闇=死とつながっている。そうした神々や霊は両義的な存在であり、人間に苦悩と恐怖、破壊をもたらすと同時に、豊饒や至福をもたらす力を持っていると信じられている。そして、神々や霊と人問を媒介する役割を果たすのが巫女(シャーマン)である。彼女にとって創作とは、霊界とコミュニケートし、聖なるものを現出させる巫女的行為なのだ。
そんな彼女の作品は決してここちよいものではない。動物であっても「まあ、かわいい!」と言わせるような造形ではない。岡本太郎は『今日の芸術』の中で、すぐれた芸術はここちよくあってはならない、むしろ一種の不快感、いやったらしさを感じさせるものだ、と述べている。「妖怪地獄」「魑魅魍魎」「悪魔」「泥沼の闇」(いずれも彼女の言葉)を突きつけられて、戸惑いや違和感を覚えない方が不思議だが、作品と向き合う中で、その意図するところがしだいに判ってきたとき、緊張感の中に大きな喜びと充実感が沸いてくるはずである。芸術における「癒し」とは、まさにそうしたものではないだろうか。
個性的な表現や自由な表現は先験的に真なのか。現代陶芸の限界の一つもここにあるように思える。他との差異、これが個性の条件だ。しかし、今日の消費資本主義社会では、絶え間のない差異化の中で芸術作品もただ記号として消費されて、リアリティーを失っていく危険性を常に帯びているのだ。だから、今時代のテーマは「癒し」なのかもしれない。確かなものが欲しい、自分の存在感を確かなものとしたい一と。そのためには、これまで人間社会を背後から形づくってきたもの、支えてきたもの、人間の深奥に潜むものに向かう必要がある。自己に潜む他者、内なる異界との対話が求められているのだ。
霊媒者ポンのり子がメキシコから日本に送り込んできたミステカの風は、私達に新たな希望と活力を与えてくれることにちがいない。
(前江別市セラミックアートセンター学芸員)